~しばしのお別れ、復元後にまた会いましょう~

川崎市役所本庁舎 さよならイベント


 川崎市は、1938(昭和13)年の竣工以来、78年もの間、市民に親しまれてきた「川崎市役所本庁舎」の建替えを計画しています。本庁舎は、過去に2回増築されており、1950(昭和25)年には東館が2階建てから3階建てに、また、1959(昭和34)年には本館が3階建てから4階建てになり、併せて北館が増築されました。
 戦火をくぐり抜け、歴史的建造物の雰囲気すら漂わせていた本庁舎は、しばしばテレビドラマ等でも見かけることができましたが、いよいよ解体・建替えが決定され、2016(平成28)年10月14日から16日までの3日間、「川崎市役所本庁舎さよならイベント ~しばしのお別れ、復元後にまた会いましょう~」が開催されました。
 「さよならイベント」では、市長室や講堂など、本庁舎の内部をルートに沿って見学する『庁舎内探検』、本庁舎竣工以来の歴史をまとめた記録映像『本庁舎78年のあゆみ』の上映、『想い出の本庁舎写真展』、本庁舎の壁をキャンバスに“キットパス”で自由に落書きできる『楽書きアート』、本庁舎にゆかりのある語り手による『かわさき産業ミュージアム・トークイベント』、本庁舎のシンボルであった『時計塔ツアー』、『音楽コンサート』等が企画、実施されました。
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すでに「解体撤去その他工事」が発注され、落札者が決定される直前の10月15日、見学に行き、取材してきました。本イベント中でなければ配布されないであろう、貴重な情報がふんだんに盛り込まれたパンフレットや、解体後には最早撮影することができない記録写真を手に入れることができました。

また、トークイベントでは、川崎市総務企画局本庁舎等建替準備室長の和田忠也氏による「本庁舎及び周辺市街地の変遷と新本庁舎の計画について」のお話や、戦時中、約3年半に渡り、時計塔で神奈川県防空監視哨員を務められていた星野正孝氏による「戦時下の本庁舎と川崎大空襲」に関するお話、そして、1959(昭和34)年に増築された本庁舎本館4階部分及び本庁
舎北館の設計者であり、元川崎市建築局長の原壽幸氏による「本庁舎増築時を語る」と題する興味深いお話を聞くことができました。中でも、非常に興味深いと感じたお話について、以下に列挙しておきます。
①銀柳街はかつて古川という川を埋め立てて作られた商店街であり、平和通りから堀之内に至る街路は大変な賑わいだった。
②京急川崎駅から稲毛神社に抜ける通り、本庁舎北側の道路がかつてのメイン・ストリートだった。
③大正13年7月1日の市制後も、57坪しかない川崎町役場を市役所として使っていた。ちなみに、現在の「焼肉三千里」さんの辺り(住所は、堀之内345番地→宮本町61番地→宮本町5番地1)。
④旧町役場の建物が手狭で執務困難となったため、旧川崎尋常高等小学校の校舎と敷地を譲り受け、市役所分室として使用していた。その後、その敷地、現在本庁舎がある場所に市役所を新築することになった。当時から、街の中心を南側に移そうという構想があった。本庁舎の駐車場は、かつて京浜川崎駅から第一京浜国道に向かって延びていた道路を廃止した場所。
⑤昭和13年の本庁舎竣工当時、正面の車寄せは黒御影の石造りだったが、今度の新築時には、その当時の造りに復刻する予定。
⑥地上から約36m(120尺)の高さの時計塔は、防空監視の目的もあったため、サイレンが付いていた。
⑦昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で米英との開戦に至ったが、その前から、迷彩色で防空擬装していた。開戦から約4か月後の昭和17年4月18日、日本本土への米軍機による初めての空襲(ドーリットル空襲)では、双発の爆撃機(B-25)が南方から川崎に襲来するのを発見し、大変驚いた。後日、神奈川県知事から、初の敵機発見の功により表彰された。
⑧昭和20年4月15日の「川崎大空襲」では、B-29の大編隊(194機)が襲来した。合計1万3,000発もの焼夷弾や爆弾が落とされ、炎と黒煙でサーチライトが役に立たず、高射砲も撃てないまま、見渡す限りの焼け野原になってしまった。本庁舎(時計塔)、宮前小学校(国民学校)、小美屋は戦火を免れて残った。
⑨元々の本庁舎は、本館が鉄筋コンクリート造(一部、鉄骨鉄筋コンクリート造)3階・地下1階建て、東館が鉄筋コンクリート造2階建て。昭和25年に、東館を2階建てから3階建てにする際は、増築を予定していたのか、構造的には問題なく、鉄筋コンクリート造で増築できた。しかし、昭和34年に本館を3階建てから4階建てにする際は、増築を想定していなかったのか、強度が足りないことが判明したため、構造計算をやり直した。
⑩軽くすれば何とか上に載せられると判断し、本館4階と北館は鉄骨造で増築することにした。安全性を重視するだけであれば、それほど難しい設計ではなかったが、金刺市長から「デザインもそっくり同じにしろ。」と命じられたため、幸いにも残っていた有田焼の窯元に昭和13年当時と同様の外壁用タイルをオーダーするなど、苦労する部分も多かった。結果、増築したと言わなければわからないほど、上手く仕上げることができた。
⑪本庁舎を「解体して、新たに建て直してはどうか。」、あるいは、市役所そのものを「中原の小杉辺りに移してはどうか。」といった意見もあった。当時、川崎市の中心地であった地域から市役所を動かそうとすれば、地域住民の大反対に遭うのではないかと危惧され、また予算的な問題もあったため、最終的に鉄骨造で増築するという計画に落ち着いた。
⑫昭和40年頃から、スチール製だったサッシをアルミ・サッシに改装していったが、地下の「入札室」には唯一、最後までスチール・サッシが残っていた。
 2004(平成16)年度以降、電子入札が全面的に実施されるようになってからは、訪れることもなくなった、本庁舎地下の「入札室」。かつては毎週のように通っていた場所ですが、「さよならイベント」で訪れた際には、正に『つわものどもが夢の跡』といった風情でした。
 1938(昭和13)年当時の本庁舎を復刻して、休日や夜間も一般市民に開放し、飲食店を設置、イベント等も開催できる地上3階の低層棟と、地上24階・地下2階の高層棟から成る新本庁舎は、平成28~29年度に解体工事、平成28~30年度に基本・実施設計、平成31~34年度に建築工事というスケジュールで進み、2022(平成34)年度に竣工、翌2023(平成35)年度には第2庁舎跡地広場が完成する予定になっています。市役所通りが「緑の軸」、京急通りが「にぎわいの軸」となって、数多くの市民が訪れ、市役所を中心とする一帯が賑わいを取り戻せるような新本庁舎となるよう、期待します。